- 2011/4/1
- 文: 松元祐太
- 記事No: 00007
東日本大震災訪問記 第0話前編
【被災された方々にお見舞い申し上げます】
地震から1か月近くがたちました。この地震による被害の状況もようやく明らかになってきています。同時に原子力発電所という文明の知恵がもたらした事故は放射能汚染、停電として未だに尾を引いています。
この度そのような震災によって被害を受けられた方に対し、心よりお見舞い申し上げます。被害にあわれた方々のために、今回は筆をとることによって微力ながら貢献できたらと思います。
【誰に、そしてどう読んでもらいたいか】
この訪問記は、私の経験をベースに今回の地震を振り返ろうという全8話の企画です。この訪問記では記事を通して私が思ったこと、感じたことを追体験していただけるような体裁をとっています。そしてその追体験によって今回の震災を振り返り、さらにここで考えたことが、今後必ず起こると言われている大地震への教訓として活かされれば幸いです。
またこの記事は震災に合われた方々に対して何かをしたい、という方を特に意識して書かれています。漠然とした「何かをしたい」、から特定の「あれをした」へ。両者をつなぐ架け橋となってもらえることを目指しています。
しかし読者として想定しているのは支援をしたい側の方だけではありません。家族を亡くされた、または家が流されたという方もこれを読んで「こんなにも応援しようとしてくれるのか」と励みにしていただければ、それはこの上ない喜びです。
第0話では私が地震発生から現地に入るまでの記憶、出来事を文章にしています。おそらく首都圏にいた多くの人が体験されたことだと思います。そしてこの記事によって、海外などにいてこの地震の始終を知りたい、同じような体験をしたが将来「あの時」を思い出すためにとどめておきたい、そのような声に応えられればいいな、そう期待を込めて筆をすすめることにします。
【地震発生、その時】
2011年3月11日14時46分。私は川崎市の野球場にいました。ゴーっという音とともにあたりの柱が音と立てて揺れ出します。私は思わず手にしていたカメラでビデオを撮り始めました。
あたりは緊張の糸がはりつめます。みんなの表情がこわばっています。地震から数分後、救急車の音がけたたましく鳴り響き、あたりから煙が見えました。
友人はみな携帯電話を取り出し、親や友人に電話をかけます。しかし誰も繋がりません。スマートフォンなどでインターネットを確認しました (インターネットは今回ほとんどダウンしませんでした)。東北地方で震度7。これは大変なことが起きたな、と。
【帰宅困難者】
地震前から言われていたことですので、地震発生時から想定していましたが、地震発生日、多くの人が帰宅困難者となりました。都心の電車は軒並み運行中止となり、平日でもあったため多くの人が自宅に徒歩で帰るか、ホールや運動施設など大規模施設で一晩を過ごしました。
私自身も川崎から自宅のある千葉まで歩けるわけもなく、横浜の友人宅まで10数kmを徒歩で帰りました。
道中、印象深い光景を数多く目にしました。
バス停に並ぶ延々と続く行列、満車を告げるレンタカー店の案内、真っ暗な横浜市内、鶴見川から見えた東京湾のオレンジ色の光、真っ暗な駅、渋滞によって全く動く気配のない幹線道路、歩道を埋め尽くす人の流れ、帰宅困難者を支援する地元消防団の仮設休憩所、軒並み売り切れる運動靴…
それらはどれも非日常を象徴する光景でした。
【物がなくなった】
地震から数日経ちます。テレビではどこの局も流された家々、燃え広がる炎と、東北地方のショッキングな映像が流され続けました。一方で首都圏に目を向けると、そこでも異様な光景が多々目に映りました。
まずガソリンスタンドの長い行列は皆さんも記憶に残っていると思います。もちろん首都圏のガソリン精製所が軒並み停止し、電車が止まったことなどによって確かにガソリンの需給のバランスは狂いました。それ以上に、ガソリンスタンドの車列は、もう車に乗れないのではないか、という不確しかながらも不気味な不安が煽られたことによるのかもしれません。
他にも多くの物がなくなっていきました。コンビニエンスストアからは食べ物がなくなっていきます。
なぜこんなにも首都圏から物がなくなっていったのか。これは4月になった今でも同じことが改善されつつも続いています。
【応援メッセージ】
こうした現地の悲惨な現状、首都圏の混乱を多くの人が目の当たりにしました。
このことは多くの人の気持ちに火をつけたのではないでしょうか。
―私になにかできることはないか
と。市民が動き始めます。それは巨大な動きとなって。
その問いはもちろん私たちイマジーンにも生じました。そこで私たちが選んだものが、そう。応援メッセージでした。
今回、イマジーンでは「あなたの励ましを直接現地に届けます」と銘打って、被災された方に向けて皆様から応援メッセージを募集しました。ここで、数多くの応援メッセージを頂戴しましたことをご報告させていただくとともに感謝の気持ちを申し上げます。皆様、ありがとうございました。
しかしそのメッセージは届けなければ意味がありません。応援メッセージを現地にお届けする、世界中の皆様の思いを現地にお届けする、いったい誰が行くのかということが問題としてありました。
当然、そこには危険が付きまといます。余震はまだ活発で、津波の心配もありました。
まずは代表の仲山が行くとのこと。そこで、です。おそるおそる私も手をあげました。そこには被災地に直接入り、実感できる直接的な支援をしたいという強い思いがあったからです。
仲山からは「もしよかったら一緒に行こう。…こういう流れの人生を送らせてもらってきて、ここは動くべき」と強い言葉をかけられました。
そしてこの言葉を胸に、私の「届けたい」という気持ちは揺るぎないものとなっていきました。
しかし危険を乗り越えるために威勢を張り上げるだけでは不十分でした。そんな気持ちを実行に移すまでにいくつかの現実的な課題をクリアする必要がありました。
問題をどう解決して、被災地へと入っていったのか、それは後編へと続いていきます。
後編につづく。
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